カンボジア旅行05/12

カンボジアに小学校を作るということでわずかばかりの寄付をしたところ、贈呈式に出席しませんかとお誘いがあり、遺跡巡りも兼ねて参加しました。現地で遺跡研究に活躍し、土地の人に慕われた大学時代の友人古城泰君(病気で亡くなった)を偲ぶ旅でもありました。

旅程
12/25 成田->バンコク 9:45-14:45 TG643
バンコク->シェムリアップ 18:40-19:30 PG944
12/26 シェムリアップにて遺跡観光
12/27 シェムリアップにて遺跡観光
12/28 シェムリアップ->プノンペン
12/29 プノンペン->コンポントム
12/30 コンポントムよりサンボー小学校式典、遺跡見学
式典の録音
(1)読経
[mp3j track=”http://fluteywinds.com/media-lib/music/0512cambodia/dokyo.mp3″ volslider=”y”]
(2)踊り
[mp3j track=”http://fluteywinds.com/media-lib/music/0512cambodia/onngaku-to-odori.mp3″ volslider=”y”]
(3)久保純子さんの挨拶
[mp3j track=”http://fluteywinds.com/media-lib/music/0512cambodia/kubo-aisatsu.mp3″ volslider=”y”]
(4)尺八演奏
[mp3j track=”http://fluteywinds.com/media-lib/music/0512cambodia/shakuhachi.mp3″ volslider=”y”]
(5)子供の歌(教室にて)とさくら
[mp3j track=”http://fluteywinds.com/media-lib/music/0512cambodia/kodomo-uta.mp3″ volslider=”y”]
12/31 コンポントム->プノンペン->バンコク 20:25-21:30 FT699
バンコク->成田 23:40-7:30(1/1着)TG642

日記

12/25
朝始発電車に乗り成田よりタイ航空便でバンコクへ。ここで4時間待ち、シェムリアップへ乗り継ぎ。シェムリアップでは旅行者(PIT)のソビチエさんが出迎え。彼は、空港でも幅が利くそうで、一人空港内に入って出迎えてくれた。VISAの取得もスムーズに終わり、ホテル(Ankor Star Hotel)へ。21時を回ったので、外へは出ずに、部屋のビールとともに、インスタントのトムヤムヌードルを2つ食べて寝た。かなりホットなスープだった。なかなか良いホテル。ツインで45US$。思った程暑くなく、夕方雨も降ったようだ。クーラーを消して寝る。

12/26
ホテルのビュッフェで朝食。焼きそば、おかゆ、野菜炒め、ビーフン、チャーハン、野菜サラダ、パン、コーヒーなど。味付けはホットでなく、薄味でどれもおいしく食べられる。ついつい沢山食べてしまう。

朝8時にガイドが迎えに来た。運転手付きのバンに乗り込む。ガイドは日本語が話せるが、発音に癖があり、ちょっと聞き取りずらい。ここは今、観光ブームで外国語を勉強してガイドになる人も多いようだ。観光客で多いのは、韓国、中国、日本の順だそうだ。欧米人も多い。中にはフランス語も聞こえてくる。

ツーリストチェックポイントに立ち寄り、写真をとってもらって3日間の通し券(40US$/人)を購入。まずはアンコールトムへ向かう。

アンコールトムの南大門に着いて車を降りる。堀にかかる橋には神々と阿修羅の象がこちらを見据えている。ここで、眞理子が(タイで乗り損ねた)象に乗りたいと言い出したので、一人10US$を払い、踊り場に登ってから象の肩の上のゴンドラに乗り込む。ここからバイヨンまで、15分。左右にほどよく揺れて、見晴らしも良く、最高の気分だ。象は王様の乗り物。

バイヨンに着く。バイヨンはアンコールトムの中心寺院。壁画がおもしろい。ガイドが、レリーフの説明をしてくれる。チャンバ(南越?)軍との戦いや、庶民生活の様子が描かれている。中国との交流も深かったようだ。ところどころに美しいデバダーのレリーフもある。中央部の少し高い所には観音像の顔面レリーフ(四面塔)があり、これはタイでも見たものに似ている。

ハイヨンを北方向に出ると、象のテラス。象のレリーフや象の鼻の像がある。これの先には、ライ王のテラス。ここの低い所にレリーフが多い壁があった。物乞いが角角に座っていた。

一旦、シェムリアップに戻り、レストランで食事。スープと野菜炒めを食べた。ホテルに戻り、昼寝。その後、プールで一泳ぎ。

午後の観光は午後3:00から。アンコールワットに行く。堀の橋を渡った。新婚さんが衣装を着てお参り?していた。友人が男女3人ずつ、同じような衣装をまとっている。花嫁はとても美人。外側の第一回廊には、レリーフがびっしり。ラーマーヤナ、マハーバーラタ、乳海攪拌などの物語を描いている。人気の少ない、回廊の突き出たところで尺八を取り出し「調子」を献奏。

第二回廊を突き抜けて、第三回廊の上部へ登る。とても急な階段になっている。上からは見晴らしが良い。下りは手すりのついた急階段を降りるが混んでいるので、手すりなしの階段を下りる。
夕食はレストラン「ハイヨンI」へ。ここで影絵を見ながら、雷魚のアモック(ココナッツ入りスープ)と豚の野菜炒めを食べた。ホテルで頼んだタクシーが送迎してくれた。

12/27
朝8時にホテルを出発。トンレサップ湖の水上生活の様子を見に行く。昨日は遺跡とジャングルばかりで生活のにおいがしなかったが、今日は道すがら、一般の人の生活が見える。高床式のバラックのような家が多い。川は濁っているが、魚がとれるようだ。トンレサップ湖は雨期と乾期で面積が3倍にも変化するそうで、今は乾期。水量は減少に向かっていて、人々は後退する水際に向かってバラックの家毎、引っ越しをする。そうした引っ越しの途中の一軒に出会った。

湖の中心に向かって道路が延びており、やがて水没している。それよりも少し手前で、船に乗り込む。一人125US$。5mくらいの船で、 12歳と15歳くらいの子供が運転。エンジンやハンドルは手製らしい。車の中古エンジンに、ハンドルから渡したチェーンで舵を取っている。ここから湖に向かう。途中、水上生活をしている家族を多く見かける。船や筏の上に屋根をかけて暮らしている。水に浮いた学校もあった。これも季節により移動するとのこと。

湖に出ると、一人ずつ、たらいに乗った子供達が櫂を器用に漕いで、観光船に近づいている。物乞いをするそうだ。その船が行ってしまうと、こんどはこちらのほうにあっという間に近づいてきた。まるでお椀を漕ぐ一寸法師さながらの風景だ。しかたがないので、1ドルは多すぎるので、これをガイドと船の子供にくずしてもらい、3人の子供にあげて退散。河口付近はベトナム人が多いらしい。カンボジアには数十万?のベトナム人が住んでおり、カンボジア人とは必ずしも良くないとのこと。

帰る途中、筏の上の「魚の博物館」に寄る。ここではワニを飼っている。トンレサップ湖の下流にはワニが住んでいるそうだ。魚は豊富で、いろいろな種類の魚が採れる。いずれも日本では見かけない熱帯特有の魚ばかり。明日はナマズを食べよう。

ホテルの近くまで戻り、オールドマーケットで買い物と見物。眞理子がいきなり、ショール類を沢山買い物。そのあとマーケット内を行く。野菜、肉、香辛料、衣料、その他何でもある。ちょっと息苦しくて、長居はしなかった。

昼は、ガイドさん、運転手さんも一緒に「バンテアイ・スレイ」というレストランで昼食。ここはポルポトに殺されたカメラマン一ノ瀬泰造氏が通ったレストランだそうだ。彼の好んだ料理を揃えたメニューのなかから注文した。

午後は2時より、遺跡の見学の続き。まずはプリア・カン。観光客が少なく、甲高い蝉の声も響いて、遺跡見学の雰囲気がよい。参道では地雷で手や足を失った人たちの楽団が民族音楽を奏でている。遺跡にはタプロームのように大きな木が遺跡に絡んでいた。タプロームは明日見ることにして、バンテアイ・クディとスラ・スラン(池)を見学。この後、プラサット・クラバンを最後に見学。小さめの煉瓦をきれいに積んだ(修復はされているが)整った遺跡だ。

帰りがけにキリングフィールドに寄る。ここではポルポト時代の大量虐殺の墓があったところ。塔には骸骨が多数納められている。ポルポト時代には100万人以上の人が殺されたと写真の脇に書いてあった。ガイドの家族も14人のうち、8人が殺され、病気で亡くなったりして、2人しか残らなかったと語った。お寺の本堂に入り、お参り。ホテルに戻り、休憩。

夕方7時半頃、高岡から電話が入り一緒に食事に出た。古城さん(泰君のお兄さん)達は到着までもう少し時間がかかる。歩いてIndochineというレストランへ。洋風でヨーロッパ人が多かった。ちょっと塩辛い味付けだったが、まあまあか。高岡夫婦と一緒になってにぎやかな旅になってきた。

12/28
朝8時から古城親子を加えて遺跡見物。今日のガイドは女性。かわいい子だ。アンコールトム、ハイヨンを見てから、象のテラスの向かいの北クリアン遺跡を見た。罪人の疑いをかけられた人がここに3日籠もってなお元気であったら罪が晴れたという話があるとガイド。ここの一つには、古城泰君の分骨がされているとのこと。思わず涙がこみ上げてきた。

昼は、初日に昼食をとったところ。ナマズのグリルを食べた。わりとさっぱりしていて悪くない。

午後は、アンコールワットとタプロームを見学。上智の石澤教授がツアーガイドをしていた。夕方、上智大学事務所へ、夕日を見にプノン・バケンへ登った。人が一杯。雲がややかかっていたが、夕日をみることができた。

古城の教え子のダリ?さんが加わって、夕食はホテルの前のレストランでアプサラダンスつきの食事。バリで見たような優雅なダンス。一人20US$はちょっと高かった。

12/29

朝7時コンポントムへ向け出発。出発してまもなく市場。ここで果物類を買い込む。午前中は遺跡見学。まずロリュオス遺跡群を見学。人が少なくて良い。この後、ベンメリアに向かう。国道6号沿いを走るといろいろなものが目に飛び込んでくる。広い田の風景。人、牛、鶏、家、池、魚採りをする人、自転車に乗る人、トラック、バス、豚をのせたバイク、鳥を沢山ぶら下げたバイク、コオロギ(バッタ?)採りのビニールシートの仕掛け、稲刈り、稲藁、米を干している筵、などなど。

ベンメリアは、発見されたままの姿の遺跡で、半分以上が崩れた状態で、人が監視か案内か、つかず離れず付いてきて、こっちだ、そっちはだめだと合図する。壁の上に登ったり、狭い回廊を通って、あっちへ行ったり、こっちへいったり、ちょっとした探検気分だ。壁の上の気分の良いところで昼食。人がほとんどいないのがとても良い。

休憩時には、コオロギ?を食べた。荒内(高岡婦人)が一番沢山食べた。足をむしって食べる。ちょっと脂っこいかな。

コンポントムに到着。夕食はホテルの上のほうでパーティ。ここでは、SVAの人たち、早稲田の発掘のグループの人たちが加わって25人位のパーティとなった。一人ずつ自己紹介。私は英語で自己紹介を試みたが、古城の話をしたとたんに涙がこみ上げてきて中断してしまった。SVAはボランティア団体で、小味かおるさん、内藤所長、日本に留学経験があり、日本語、英語も上手な若い人、日本からのボランティアで若い人(永平寺で修行を終え、10月から来ている)、早稲田は下田さん(中川研究室)、女性2人(短期滞在)、ダリさんの弟子2人、テリー?さん、他。本当に、古城が始めたことがこんなに大きな輪になっていることに感動を覚えた。

12/30
ホテル横のレストランで食事。朝7時半にホテルを出発。サンボー村へ着く。学校が完成していた。子供達が学校前のテントに集まっていた。車を降りるとスカーフを一人ずつに掛けてくれ、式典のテントへ進んだ。

いろいろな人が挨拶し、古城さん、久保さん、SVA内藤所長、サンボー郡代表など。我々は贈り物(サッカーボール8個持参)を子供達に手渡した。この後アプサラダンス(音楽つき)、SVAの絵本の読み聞かせがあり、この後に尺八で本曲「調子」と「さくら」を演奏した。さくらが良かったという反響があった。

次に四つある教室を一つずつ訪問し、久保さんのお母さんが造ったという折り鶴を生徒一人に配った。古城さんが簡単な挨拶。2番目の教室では子供達が歌を歌ってくれて、お返しな何か歌って欲しいというので、「さくら」を歌った。

井戸は早稲田の学生が掘ったとのこと。昼食の後、家庭訪問。一軒目は、高床の家の中に入ってお話を聞く。家の中にはほとんど何もない。木の箱が一つ。ここに布団のようなものが入っているのだろうか。子供が4人。怪我をしてから、借金を抱えて生活が苦しいらしい。庭には井戸がありとキャッサバが植えてあった。

2件目も子だくさんのようだ。一人の子は口の周りがただれているがお金がなくて治療ができないらしい。どちらの家もほとんど鍋の他に何もないような生活だ。それでも結構明るい顔をしている。

沿道の広い田圃を見てきた私には、日々のお米も足りないという話に驚いた。生産効率が悪いため、収量が少ないのだという説明をSVAの人から聞いた。面積当たりの収量は日本に比べて一桁近く低いのではないかという話も出た。このような貧しさを目の当たりにすると、頭の中が混乱してくる。

午後は、古城が発掘を始めたサンボー・プレイ・クック遺跡を見学。下田さんが専門的かつわかりやすい説明をしてくれる。古城がここに目を付けたのはやはりすごいことだったようだ。

ホテルの近くの屋台でミックスジュースを飲みアヒルのゆで卵を荒内と二人で食べる。卵は半分雛になっているようだ。恐れるほどでもなく(まだ骨も羽も形になっていなかった)おいしく食べられた。古城さんも合流し、これを食べた。インターネットショップに立ち寄ったが日本語フォントがインストールされておらず、使えなかった。

夕食は早稲田の事務所で。下田さんと学生やテリーさんなどと食事会。まかないの人の料理がおいしかった。久保さんがプノンペンで仕入れたそばを食べることができた。ここで、下田さんのお話(古城と行った遺跡調査の話しなど)を聞いた。眞理子がお腹の調子が悪く、ホテルで休憩。高岡も調子悪く、自重気味。

12/31
朝食後、市場を見学。いろんな野菜、果物を見かけた。バナナを買う。一路プノンペンへ。途中お茶休憩をとる。蜘蛛の唐揚げを売っていた。これが古城がよく話していたやつだ。これを食べてみることになった。おそるおそる足を。蟹のようだ。つぎに胴体を。油で炒めてあるせいか脂っぽい。古城の供養だと思ってなんとか食べた。古城(兄)さんにも勧めた。

久保さんの関係で、地元のボランティア団体を訪問。お年寄りと貧乏な人を支援しているとのこと。説明を聞いてから、寄付(一家で10US$ずつ)を差し上げた。お土産に鳥の羽の扇子と小さな入れ物をいただいた。

プノンペンに近づくと道はだんだん交通量が増えてきた。日本橋(日本が建設を支援した。プロジェクトXで放映したそうだ)を渡り、プノンペン市街に入る。アメリカ大使館が中心部できたそうだ。プノンペンホテルで古城親子はチェックイン。洋風のレストランで昼食。カレーを食べた。

芸術大学の古城ルームを訪問。古城の全身の肖像画が掛かっている。瓢箪のコレクションは段ボールの中。一つを空けてもらう。一年くらいの間、これを集めに奥深い村まで、通っていたそうだ。このコレクションを材料に研究をしようとしている学生がいるとのこと。

博物館を見学。遺跡では少なかった仏像が多く展示してあった。高岡は仏像のお土産を購入。

最後にSVA事務所を訪問。ここで内藤所長のお話を伺う。SVAとしては学校建設よりはむしろ絵本の活動を中心にしたいが、支援は学校建設には集まっても、絵本の活動は理解されにくいとのこと。識字率を上げる活動として絵本は重要とのこと。移動図書館(本の入った木箱)や日本式の紙芝居もあった。限定したタイトルの日本の絵本を集め、翻訳した紙を貼り付けて、配るとのこと。是非、絵本の方にも協力して欲しいと言われた。

内藤所長は数年、小味さんは12年SVAに勤め、明日退任するとのこと。次にどうするか決めていない(小味さん)。内藤さん(70歳位?)は僧籍をお持ちで、何か(人のために)できないかということで、SVAに来たとのこと。「今の日本人は間違った方向にある」といったきついコメントもちらほら。耳が痛い。

最後に小味さんのご自宅に寄り、コットンのスカーフを分けていただき、別れの握手をし、空港へと向かった。このスカーフがとても気に入った。

1/1 夜行の飛行機。お腹の調子が悪く、朝食はスキップ。無事成田に到着。当たりは、冬枯れの景色。たった数時間で別世界から戻ってしまった。

今回の旅は、とても楽しく、思い出深いものになった。子供達の明るい顔、おいしい料理、お米、果物、野菜、魚、豚とかが溢れていて豊かそうで、実質はとても貧しい人々の生活。なぜ貧しいのか?貧しくても、結構表情は明るい。彼らを支援する日本の人達の活動。いろいろ考えさせられるが、当分考えの整理はつきそうにない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です