麻生区(あさおく、神奈川県川崎市)は、私たちが若かった頃(40年前から20年位前位まで)、田圃や畑、雑木林に囲まれた大変、自然豊かな地域でした。それから徐々に都市化の波が押し寄せ、今では都心のベッドタウンとなっています。それでも昔の自然が今でも、所々残されています。あの頃の麻生(とくに柿生地区)の様子を思い出してみました。

蕗の薹が春の訪れを告げ、やがて田圃にはレンゲが一面に咲き乱れ、春の田圃で草笛を吹いたりして遊んだものでした。雑木林に囲まれた谷戸田の脇には、細い小川が流れ、ざるでメダカ、ドジョウ、ヤゴ、オタマジャクシなどを捕まえては、バケツに入れて持ち帰り、庭の池に放したりしていました。

川沿いの低地は田圃が広がっていました。農家は、皆米作りをしていましたが、売る程の規模はなく、ほとんど自給用だっとと思います。初夏になると、田圃の蛙の大合唱がやかましくて、夜なかなか寝付けないこともありました。夏になると、茅葺きの家の戸を開け放って、大きな蚊帳を吊って、家族一緒にその中でやすみました。蛍が家の中まで飛んできたこともありました。今でも、麻生区の最北部、黒川では6月中旬になると蛍が見られます。

田植えが終わり、初夏が訪れると、田圃の蛙の大合唱が始まります。これがやかましく、なかなか寝付かれないときもありました。茅葺き屋根の家の縁側の戸を開け放ち、大きな蚊帳を吊って、夜寝るのですが、蛍が家の中まで迷い混んできたこともありました。

平地を流れる川は、今ではコンクリートの護岸で固められていますが、以前は両岸を篠竹の藪で覆われ、くねくねと曲がって流れていました。藪の切れ目を見つけて、釣り糸を垂れると、小魚がよく釣れました。また、「かいぼし」といって仲間数人で、流れの一部をせき止めて、プールを作り、中の水をかい出して、魚やナマズを採って遊んだことも思い出します。

茅葺きの屋敷の周りには(空気がきれいだったせいでしょうか)蜘蛛の巣がとても多かったのを覚えています。この巣を棒の先につけた針金の輪に何重にも張り付けて蝉採りをしました。木に留まっている蝉に後ろから迫り、この輪に張り付けた蜘蛛の巣を蝉にペタっと押しつけると見事にくっついて、蝉の羽根の震動が手元まで伝わってきました。

狸は今でもいて、畑のスイカやトウモロコシを食べてしまって困りますが、以前は、野ウサギやイタチなども見ることができました。蛇も多く、鶏小屋の卵は青大将に食べられてしまうこともしばしばで、山仕事や畑仕事ではまむしに注意が必要でした。父はまむしを見つけると、必ず捕まえて、持ち帰り、食べてしまいました(私も食べました)。また、夏には、蜂(地蜂、熊蜂など)の巣を採って、蜂の子の油炒めなどが食卓に並ぶこともしばしばありました。

秋には、田圃の稲穂が垂れて、赤とんぼが群れていました。

丘陵のなだらかな場所には、畑が点在し、柿の木や栗の木畑もたくさんありました。「禅寺丸」柿が特産でした。今ではほとんど売られていませんが、昔は結構その甘さが好まれて、我が家でも秋になると、たくさん出荷していました。実は小粒ですが、甘く、今ほどお菓子や果物が豊富でなかったころ、おやつとして重宝がられていました。枝付きの実を束ねて、藁で縛り、葡萄の房のようにします。学校から帰るとこの作業を手伝わされました。房に束ねられた禅寺丸柿が八百屋の店先に並ぶと、とても見事でした。

禅寺丸柿は、とてもたくさん実をつけ、枝もたわわになります。秋も深まるとその赤い色が大変鮮やかに映ります。当地を訪れた北原白秋が次のような詩を残しています。

  柿生ふる柿生の里 名のみかは禅寺丸柿 
        山柿の赤きを見れば まつぶさに秋は闌(た)けたり

稲刈りが済むと、田圃は空き地となって、格好の遊び場になります。正月には、田圃で凧揚げをして走り回ったものです。

丘陵地帯は雑木林が延々と続いていました。いわゆる里山と呼ばれるもので、農家はコナラやクヌギなどを切り出して、炭を焼いたり薪にしたりしていました。落ち葉は堆肥に利用されていました。

丘陵地帯の標高はせいぜい高い所で100m程度ですが、尾根筋には、決まって細い山道が続いており、枝道は獣道と区別が付かないほど頼りなく、こうした道を行くのは子供にとっては、ちょっとした「探検」でした。

こうした風景は、多少は異なるにしても、日本中のどこにでもあって、誰もが故郷の原風景と重ね合わせることができるのではないでしょうか。残された自然を大事にしていきたいと思います。

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