マオリを訪ねる旅06/06(その1)
2006年6月21日から30日までニュージーランドの北島の北部を旅しました。マオリとのお付き合いが古い品川秀夫先生(精神科のお医者さん)が企画された「マオリとの交流を深める旅」への参加です。
同行者:品川秀夫先生、仲林光子先生、相原えつこさん、光子さん、しゅんすけ君、ちえ子ちゃん、井上さん、中島りえさん、眞理子 総勢10名
旅程:
6/21 18:15成田発
6/22 7:55 Aukland着、国内便でKerikeriへ、Copthorne Waitangi Hotel泊
6/23 Bays of Islands観光、Treaty Ground見学
6/24 WhangareiでHoneの舞踊団の練習見学、舞踊のコンペ見学、演奏
6/25 Kaihuへ移動、Maraeに泊
6/26 Waipouaの森、Hokianga湾見学
6/27 山菜採り、夜コンサート
6/28 WhangareiからWellingtonへ移動、Taniaさんと食事、Kingsgate Hotel Oriental泊
6/29 Te Papa博物館見学、Johnny Edmonds, Williams, Taniaさんと昼食、4pm Wellington発Auklandへ、Jet Innホテル泊
6/30 10:20 Auklandより18:30 成田
成田空港ロビーでは、皆さん既に到着していた。相原さんの家族は子供連れ(5歳と3歳)、また品川先生は、知り合いのりえさん(高校一年)を連れている。会計役の井上ゆきこさん。
オークランド空港に着き、ここで携帯を借りたり、朝食をとり、国内便でケリケリへ飛ぶ。マオリと一目でわかる人が多い。体格が良い人が多い。太ってはいるが、ぶくぶくという感じではなく、がっしりとしている。その理由はあとでなんとなく分かってきた。
国内便は、20人乗り程度のプロペラ機で、エンジン音がうるさい。1時間もしないうちにケリケリに到着。ここで、待ちかまえていたシャトルタクシーに乗り、ワイタンギのコプソーンホテルへ。
部屋で一息ついた後、相原一家と眞理子を除き、皆でパイヒアの町へ出掛けた。海辺の道を徒歩30分の道のり。パイヒアはBays of Islandの観光船が出発する基地でもあり、お土産物屋が立ち並ぶ。何軒かを覗く。マオリの工芸品などが多い。中でも何万年も埋もれていたカウリの木から作った、木の器が目を引いた。欲しいが、結構な値段だ。
この時期は、冬であり、観光シーズンオフ。観光客もそう多くはない。夏はけっこうにぎわうらしい。
品川先生が当てにしていた中華料理屋はお休みなので、夜はホテルで食事。アントレとメインを頼んだら時間がかかって子供達は寝てしまったので部屋に料理を届けてもらった。
午前中は、Bay of Islandsを船で観光。イルカが船に寄ってくるので、イルカ見物が売り物になっている。また条件が良ければ、イルカと一緒に泳ぐことができる。あいにく、天気がそれほど良くなく、肌寒いので、泳がなくて済んだ。品川先生は以前、泳いだ(泳がされた?)ことがあるそうだ。今回は、泳がなくて済みほっとしたとおっしゃっていた。
イルカが途中で船の横で時々ジャンプする。特に船から餌をあげているわけでもなさそうで、イルカが好奇心で寄ってくるようだ。イルカを発見すると船が止まり、皆甲板に出て写真をとったり大さわぎ。
途中、Russelの町(昔は捕鯨の基地であり、当時の中心地であったらしい)を過ぎ、海蝕洞の空いた島まで行った。波が静かならば、船はこの穴を抜けるそうだ。しばらく、船は様子をうかがっているようだったが、波が荒く、あきらめて引っ返した。
途中の島には、羊がたくさん放牧されていた。ニュージーランドでは、羊の数は人口の10倍だそうだ。
午後は、ワイタンギ・トリーティ・グランドを見学。ここは、1840年にワイタンギ条約が英国とマオリの首長達と締結された場所であり、ニュージーランドの移民者とマオリ双方にとって記念碑的な場所。この条約を基本に今も土地の返還運動が盛んと聞く。
品川先生にとっても、ここは記念碑的場所なのでしょう。ここのミュージアム館長だったJohny Edmonds氏と知り合い、マオリとの親密なお付き合いが始まったと聞く。また、これから会うホネ(Hone)さんは、ここで観光客向けに踊っていたそうだ。館長が代わったあと、職を失ったとのこと。
博物館の土産物売り場で、木の大きな器を買った。100ドル弱。カウリ(Kauri)と思ったがリム(Rimu)だった。でも、なかなか良い。ガーデンパーティ用に良い。
ボート(waka)は、カウリ(Kauri)?の丸木をくりぬいた、とても長くて大きな丸木船で、小屋掛けしてあった。とても大きい。マオリはポリネシアからこうした船で渡って来たので、マオリにとっては、カヌーは特別な意味があるそうである。ここは、またワイタンギ条約を結ぶために英国のCaptain William Hobsonが上陸した場所でもある。
小高い丘に登るとファンテール(fan tail)という小鳥が、人に寄ってきて、芝の上で尾羽を扇のように広げて、愛嬌をふりまく。
その先には、マラエ(marae)がある。マラエは、マオリの村の集会所。文字を持たないマオリは、村毎にマラエを持ち、儀式、集会、宿泊等にこれを使うらしい。神聖な場所であり、飲食はしない。ここのマラエは、特別で、いろいろな部族(tribe)から集められたレリーフ(carving)が壁に、たくさん並べられており、人の顔や姿をさまざまなデザインで彫り込んでいる。一つ一つがとても面白く、順に見ていく。それらの間には、織物が壁に貼られている。
これを出ると、イギリス人が住んでいた、19世紀の建物があり、中を見学する。庭も良く手入れされており、野菜やハーブなども作られていて、今も人が住んでいるような風情だ。
夕方、仲林先生と下会わせ。春の海で、「がんばり過ぎ、ピッチが高い」と注意をいただいた。
前日お逢いしたホネ(Hone)さんが手配したリムジンで、Whangareiの町へいく。ここでは、マオリの歌と踊りのコンペ (competition)が行われるので、これを見物する。また、これに飛び入りで参加できるように、ホネさんが交渉してくれることになっている。
まずは、ホネさんの率いる舞踊団の滞在するマラエに行き、ここでまず歌と挨拶で歓迎を受けた。我々も「さくら」をお返しに歌う。仲林先生が笛で前奏する。仲林先生が歌わないと合唱が貧弱になってしまうので先生は前奏だけで笛をやめ、歌に加わる。さらに品川先生がマオリ語でお礼の挨拶をされた。マオリとお付き合いするには、通る大きな声で歌えないと、寂しい思いをする。
ホネの舞踊団は、20人位か。女性が半分強。踊りながら歌を歌う。地声に近い大きな声でハモって歌う。狭い練習場では、その音量はとても大きく、和音が頭のなかまで響いてくる。女性は植物繊維で織った蓑を身につけ、男は頭に羽根飾りを付けたりしている。楽器は、ほら貝や振り回して鳴らすもの、簡単な笛など。これにギターが加わる。マオリの伝統楽器にはメロディーを奏でるものがなく、今ではギターが伴奏に加わるようになったそうだ。
女性は、紐の先にお手玉のようなものを付けた物を、踊りや歌に合わせて器用に振り回す。
ホネの奥さんは、踊りには加わらず、お茶のしたくなどをしていた。ジーパンを履いていて、顔立ちもヨーロッパ人に近いような気もする。マオリの人たちは西洋人との混血も多いのだろうか。ポリネシア系の人たちは、基本的にはアジア系だと思うのだけれど、およそ中国、韓国、日本、東南アジア、フィリピンなどの人たちの顔立ちとは大きく異なるように思う。昨年、秦野で夕方、初めてお逢いした、マノスさん、バーナードさん、トイさんの内、バーナードさん以外は、西洋人ではないかと思っていた。どうも混血の影響があるのかわからないが、典型的なマオリの古い写真をみても、アジア系の人たちとはかなり違う。
持ってきたお土産(昨晩、苦労して選別したもの)を、床に広げてお渡しした。私は持参したミニ尺八をホネさんに貴方へだと言ってこれも床においた。少しデモンストレーションをしたところ、ギターを弾いていたマオリが寄ってきて、ほら貝をためし吹きさせてくれたが、どうしても鳴らなかった。
さて、練習が終わると、コンペの会場に移動。屋内の競技場みたいな所。すでに沢山の人(ほとんどマオリ)が集まっていた。我々の出演も急遽ホネさんが交渉して可能になった。最初休憩の後が出番だ。仲林先生の笛と私の尺八で「水芭蕉」を、その後、先生の「鳥のように」箏をバックに相原光子さんがフラメンコを踊る。拍手喝采を浴びた。
ホネさんのグループの演奏は、食事に出ている間で逃してしまったが、ホネさん達と同じような編成で、同様の踊りと歌を披露したグループが何チームかあった。どれも優劣つけがたい強敵だと感じた。男ある者は入れ墨をしており、中には身体だけでなく顔中入れ墨をしている。マオリの入れ墨は相当歴史が古いらしい。日本でも、魏志倭人伝が伝えるところでは、3世紀の九州の海洋人は入れ墨していて、南洋系だというから、ひょっとしてマオリ(ポリネシア)と日本人もつながっていたかもしれない。
3時過ぎには、会場を後にした。別れ際にホネさんから、耳に刺していた、笛(骨製)をいただいた。
帰りに温泉に寄った。日本の山のなかの露天風呂と同じようなところで、脱衣所で水着に着替えて、幾つかある湯船に浸かった。いずれもややぬるめ。ちょうどいい具合のもあった。薄黒い湯で、塩素系かな。ここはマオリの昔からの温泉だそうで、地元の人も何人かいた。今日の我々の演奏やフラメンコを見てくれた人もいた。
夜はまたホテルで食事。日本酒を持ち込んで片付けた。コルク料として7ドル加算される。
6/25
今日は、バーナード(Bernard)のマラエに移動する日。朝、時間があったので、眞理子とテニスを30分する。鳥が鳴いている。
バーナードさんが黒いバンで迎えに来た。マノス(Manos)さんも別の車で一緒。今日から3日間は、バーナードさんの村のマラエに泊まる予定。といっても、まだどんなところか、全く予想がつかない。体育館での避難所生活みたいになるのではないかといささか不安を抱えての出発。Whangagreiで長靴を銘々が買わされた。2-3日前までずっと雨続きで、大分地面がぬかるんでいるからだそうだ。Whangareiを過ぎて、西海岸の Dargaville(ここにManosさんのお宅がある)から、さらに北上してKaifuという小さな村につく。バーナードがあれが僕の家だと指し示す。それを過ぎるとすぐマラエがあった。
ここで、さっそく歓迎の儀式。マオリの女性のきれいな歌声がひびく中、マラエの建物の中に導かれた。歌声は「はいれまい~、はいれまい~」と聞こえるが「ようこそ」と意味だそうだ。素晴らしい歌声の主は、ヒネラギ(Hinerangi)さん、バーナードさんの奥さんとわかった。
ここで、村の長老を交え、村の人たちから歓迎を受けた。マノスさんのお兄さんのアレックス(Alex)さん、織物工芸家のトイ(Toi)さん(女性)も一緒。歌と歓迎の挨拶を受け、お返しに「ふじのやま」を歌う。
マラエの奥の壁には、村の人たちの先祖様の写真が貼られている。バーナードがこれは誰々と、父、母、祖父等の写真を指さす。下にはキリストの像がおかれている。カトリックの信者でもある。
奥の両側の壁際には、マットが並び布団が載せられている。ここに寝るのだ。寝袋が置かれたところもある。建物の裏にはシャワー棟、横にはトイレがあり、正面の中庭を挟んで炊事、食事のための別棟がある。周りは、墓地と牧草地になっていて、豚も放し飼いになっている。
夕食は、食堂で。牡蠣やムール貝の酢の物やシチュー、クマラ(薩摩芋)のこってりしたスープなどがおいしい。食事の前には、必ずお祈りがある。お酒は飲まない。マオリはもともともとお酒を飲む文化がないようだ。食事の時間は大変短く、30分位で夕食も終え、片付け始めてしまう。みんな太っているのは、食事の時間が短いことも一役かっているのではと思い当たった。ホテルで、高いお金を出して食べた料理より、こちらのほうがずっとおいしい。品川先生は、がつがつと人が変わったように、大急ぎで食べまくる。人の前の牡蠣の酢の物も、もういいですか?と言ってから、引き寄せて、平らげてしまった。
マノスさんのお兄さんのアレックスさんは、銀細工のアーティスト(職人)だが、マオリの土地返還運動で中心的な活動もされているようだ。明日は、その会合に出掛けなければならないとのこと。土地の返還が決まって、その後の処置を相談するというようなことを言っていた。半分はそうしたことに時間がとられていて、銀細工の仕事がフルにできる生活に早く戻りたいとのこと。マオリは、1840年のWaitangi条約により、土地に関しての保証を得たはずだったが、その後白人に土地をさまざまな方法で奪われてしまい、ある(何世代か前の)女性が返還の運動を始めたのを契機に、土地返還交渉が続けられており、いくらかの成果を上げているようだ。
6/26
今日は、Kauriの森やホイキアンガ湾など、このあたりの名所を見学する。まずは、湖を見学。このあたりの土地は最近、マオリに返還された土地だそうだ。ひとつ向こう側の湖は、鰻を養殖しているとのこと。鰻はどうやって食べるのかと聞いたところ、マヌカでスモークするということ。ちょうど水辺のブッシュにマヌカ(タイムに似た灌木)があり、これがマヌカだという。お土産にパイピアで買ったマヌカハニーはこれの蜜だ。いい香りがする。
まず、カウリの木を育てているグループの小屋に行き、活動の説明を受ける。小屋から見下ろすまだ若いカウリの森は、元々は牧場だった所で、これを買い取って(?)、カウリの木を育てている。いきなりカウリを植えても育たないので、カウリが育つ環境をまず作るため、マヌカなどをまず植えてから、やがてカウリの苗木を植えるのだという。ボランティアを募って、気の長い仕事をしているようだ。リーダーのStephen Kingは、その活動で有名な人らしい。彼が誰かの質問答えて「木を植えて、あとは座って2千年待つだけさ」と冗談を言ったのが印象に残る。彼は、いつも裸足だ。森の下草や木の根を傷つけないためなのだろう。2回にはピアノがあり、Vocaliseの譜面が立てかけてあった。
カウリの苗木を育てている場所に案内された。ドイツから研修で来ているボランティアが3人、ポットの土の入れ替え作業に励んでいた。ここには、森からとってきたカウリの種から苗を育てており、小さい苗木から背丈以上のものまで、何千?もの苗木が育っていた。カウリだけではなく下生えとなる他の木も育てている。日本からボランティアが2人来たことがあるが、それきりとの話。Webサイトが英語だからという話。
しばらく行くと、ワイポウア(waipoua)の森の入り口につく。軽く食事をとってから出発、シダの下草の緩斜面を抜けるとカウリの巨木が現れ始めた。直径2メートル位のカウリを写真に納めていると、そんなのはまだ赤ん坊(baby)だという。確かに、行き着いた先の一番大きいというカウリの木を見たときは思わず、わーと声を上げてしまった。幹周りは16メートル、直径は5mもあり、高さは20mくらいで高くないが、樹冠にはいろいろな木が寄生している。Stephen Kingが裸足で案内し、説明してくれる。世界でもRed Wood(セコイア)に続いて世界で2番目に大きい木の種類だそうだ。
ヨーロッパからの入植者達は、カウリの原生林を伐採し、売り払い、そこは牧場に変えてしまった。カイフ当たりでも、少し木立はあるものの原生林は見あたらず、牧場ばかりが目立つ。シドニーの町も、大火事で焼けた後のサンフランシスコの町も、ニュージーランドのカウリで建設されたのだと言っていた。カウリの森があとわずかになって、ようやく伐採をやめようという声が上がって、かろうじてわずかに残った森がワイポウアの森というわけらしい。ヨーロッパの入植者達が、どれほと環境を変えてしまったがわかる。
途中、海岸近くの山を指して、マオリの特別な場所だという。マオリの祖先に戦の訓練をした場所とか。
ホイキアンガ湾は、マオリが最初に渡ってきた場所だそうだ。入り江の湾になった美しい場所である。ここで、フィッシュアンドチップスを食べ、昼食。ポテトの量が多く食べきれない。
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